私のこれまでの経験(前編)

私がエホバの証人を辞めるまでの話です。
辞めてからしばらくした頃に書いた文章がベースとなっています。
2004.5.5 作成

目次

  1. エホバの証人を辞めるまでの私の半生
  2. 子供時代に嫌だったこと
  3. エホバの証人として育ったことの影響

エホバの証人を辞めるまでの私の半生

20歳になって親元を出るまでの間の記憶、記録はあまりないのですが、以下、覚えている範囲で私の半生を書きます。ここでは私の人生のうち主にエホバの証人に関係する部分のみを抜き出して書いています。ここに書かれていることは私の人生の主要な部分ではありますが、私の人生の全てというわけではありません。以下、分かりやすい言葉を使うことを心がけていますが、説明無しにエホバの証人内の用語や言い回しを使っていたり、曖昧な文章になっている可能性があります。ご容赦ください。

誕生〜幼少期時代

私は1980年代に、会社員の父、専業主婦の母、1歳上の姉といった構成の家族の長男として生まれました。私が1歳の頃に両親は新居を購入し一家は転居、その後、私が(おそらく)3歳の頃?に、母がエホバの証人の勧誘を受けました。母は来訪してきたエホバの証人と勉強を始め、のめりこんでいきました。同時に私と姉はエホバの証人の子供として育てられるようになりました。父は、母がエホバの証人になることに特に反対しなかったそうです。後から聞くところによると、母親がエホバの証人に興味を持ったのは、子供の教育に良いと言われたことが大きかったそうです。

宗教活動の開始

この頃から、家から家へ述べ伝える伝道、週に3回ある集会、年に数回ある大会、年に1回ある記念式などのエホバの証人の宗教行事や活動に毎回連れて行かれ、参加するようになりました。また、自宅でも「家族研究」という名で出版物や書籍を使ったエホバの証人の教理の勉強会が行われるようになりました。このように土日祝日および平日の夜は宗教活動に時間が割かれるため、私は20歳で親元を離れるまでどこか遠くに長期間遊びに行くことはほとんどありませんでした。また、これらのエホバの証人の活動は非常に退屈でした。

集会とは1回あたり1時間ないしは2時間かけて行われるエホバの証人の教理の勉強会です。子供でも正装で参加します。集会中は、そわそわしたり寝てしまうと怒られ、場合によってはトイレや集会後の帰り道でムチによる体罰(後述)を受けることになりますので、身動きしないまま自分の妄想の世界に入ることで退屈を紛らわせていました。以後、20年近く、集会、大会、伝道など宗教活動の間の退屈な時間は、脳内のファンタジーやSFといった妄想の世界で過ごしたため、幸か不幸か、時間を潰し退屈をまぎらわせる能力、(現実)逃避能力の類は結構鍛えられました。また、これが原因か、今でも寝てる時はこの頃に想像していたような世界観の夢をよく見ます。

伝道活動では、他の信者と2人組になって、住宅街を1軒1軒回ります。エホバの証人の主な活動の一つで、私も他のエホバの証人の子供たちと同じく、幼少の頃から伝道活動に参加していました。私が幼少期の頃は、まだ「ものみの塔」や「目ざめよ」誌に値段がついており、伝道中にお金のやり取りがあったことを覚えています。また、おそらく私が子供だったからだとは思いますが、田舎の家へ伝道に行くと、おもちゃや野菜、ジュースなどをもらえることがあり、その点は楽しいものでした。ただし、年齢を重ねるにつれてそういう機会も減り、また、周りから白い目で見られていることに気付くようになり、年々、伝道活動は苦痛になっていきました。また、伝道活動をする時間のうちのほとんどは、信者(親)同士の雑談や移動時間で浪費されるため非常に退屈でした。

ムチ

前述のように私の家庭では、小学生高学年になるまで(当時エホバの証人内で行われていた)ムチによる指導も行われました。私の家庭でのムチの基準は、親の機嫌によるところも多少ありましたが、基本的にエホバの証人の教理(必ずしも社会常識と同じではない)に反した行動をしたかどうかでした。よく聖書の記述を読みながらムチをされた記憶があります。ムチに使う素材は家庭によって違っていたようですが、私の家庭の場合はゴムホースや布団たたき、定規、革のベルトが用いられました。もちろんムチは気分の良いものではありませんでしたが、それよりも、聞く耳を持たない母の方が嫌だった記憶があります。

エホバの証人の教理

エホバの証人の教理を全部書くことは難しいですが、幼少期の自分の人格形成に影響を与えていそうなものをかいつまんで書くと以下のようなものがあげられると思います。

まともな教育を受けた人がこのような教理を信じるわけはないと思いたいのですが、実際にこれを信じている人が日本だけでも何万人という規模で存在し、また、私も20年近くこの教理をベースとして人格や人生観を形成してきました。JWを辞めるまで、括弧内で示されるような思考パターンを持っていましたし、非現実的、非社会的な人生観、死生観を持っていました。なお、上記項目の最後の20世紀のうちにハルマゲドンが来るという話は、具体的には1914年を生きていた人が死ぬまでにハルマゲドンが来るという教理で、当時の多くのエホバの証人信者が20世紀の間にハルマゲドンが来ると信じていましたし、そう教えられていました。今では教理が変わっています。

幼稚園児時代

周囲に幼稚園に通っていたエホバの証人の子供はあまりいませんでしたが、幸か不幸か、私と姉は幼稚園に通うことができました。幼稚園での生活は非常に楽しいものでした。幼稚園に行けず、小学校入学後に同年代の友達の作り方がわからなかったと言うエホバの証人2世の話も聞きますので、幼少期に一般社会の同年代の子供たちと過ごしたことは心理発達的に良い経験だったと思います。幼稚園児時代中、自分がエホバの証人の子供であることは特に周りには隠していなかったのですが、伝道中に、同じクラスの子供と遭遇したときに非常に恥ずかしい思いをして泣いてしまったのを覚えています。

小学生時代

学校生活

6歳で私は地元の公立小学校に入学しました。小学校に入って大変だったのは、宗教上の理由でできないことがたくさんあるということでした。国歌校歌斉唱、国旗掲揚、七夕、クリスマス、誕生会などの多くのイベントはエホバの証人の教理により禁止されており、イベントの度に先生や級友に証言(教理の説明を行い参加できない旨を説明すること)し、他の子供達と違う行動をする必要がありました。例えば、音楽の試験で校歌を歌わなければならないのに一人だけ違う歌を歌ったり、周りが国旗校旗に注目しているのに一人だけあさっての方向を向く、級友が買ってきてくれた誕生日プレゼントの受取を辞退する、等です。特に、国旗掲揚や校歌斉唱のある運動会および運動会練習の日、給食で(当時、食べてはいけないとされていた)鯨の肉が出てくる日は朝からとても嫌な気分でした。

当時は学校のブロシュアーというエホバの証人の子供が学校でどういう活動をすべきかを記した小冊子があり、それを元に、家庭でみっちりエホバの証人の教理について勉強していました。上述のように周りと異なる行動をしないといけませんでしたが、「神の言葉に基づき行動している自分が正しく、周り(世の中)が間違えているのだ」と思うことで自尊心を保っていました。当然、周りと異なる行動をすることによりしばしばいじめの対象にもなりましたが、エホバの証人の教理ゆえに仕返しもできず、日々、耐えていました。ただし、この頃はそれほど暗い性格でもなかったためか、常時、クラス内に幾人かの友達はいました。

組織内での活動

組織内では、小学2年生の頃に、周りの2世たちと同じく、流れに乗って「神権宣教学校」に入校し、以降、集会にて実演、講演をするようになりました。100人程度の老若男女の聴衆の前で講演や実演をするのはとても緊張するもので、最後まで流暢に話をすることはできませんでした。今考えれば、少なくともプレゼンテーションの経験を積む良い機会だったと思うのですが、当時は確固とした目標も無くだらだらと講演をこなしていましたので、残念ながらたいした力はつきませんでした。

小学4年生か5年生の頃に「伝道者」になり、毎月の伝道時間を報告するようになりました。といっても、伝道者になる前から伝道には参加していましたので、単に肩書きがついただけでした。伝道活動は路上で時間を浪費することが最大の目的に見え、そこに何の努力や改善もなく、好きではありませんでした。今考えれば、営業の練習の場と捉えればそれなりに得るものもあったと思うのですが、エホバの証人の教えを是非伝えたいという思いなどありませんでしたし、親に言われるまま受動的にこなしているだけでした。

同じ頃に、いつの間にかエホバの証人の勉強をしていた父が姉と同時にバプテスマを受け、正式なエホバの証人になりました。私は、エホバの証人の教理はとりあえず信じることにしていましたが、まだ自分はバプテスマを受けるにはふさわしくないし、バプテスマを受けた後に罪を犯さない自信がなかったため、バプテスマを受ける気にはなれませんでした。

なお、今となっては因果関係はわかりませんが、実は私は小学生低学年頃まで夜尿症や爪噛みが治りませんでした。いずれも精神的ストレスが原因で発症する可能性もあるようで、家庭環境や宗教活動からくる精神的ストレスが関係していた可能性もあるのではと思っています。

中学生時代

学校生活

私が入学した地元の公立中学校は、軍隊か?と思えるほど厳しい学校でした。そのような中、周囲の生徒が一生懸命校歌の練習をしているときに一人だけ口をつぐむなど、エホバの証人の教理ゆえに一人だけ違う行動をすることは大きなストレスでした。また、中学生からは(エホバの証人の教理で禁止されている)武道の授業が行われるようになり、授業で武道が行われる時期になる度に先生に証言、また、クラスメイトからは奇異の目で見られることになりました。

そういうこともあってか、一時期、クラス内の多くの男子生徒からのいじめ、肉体的暴力の標的になっていました。体力的に相手に劣っていたわけでもなく、本心では、こちらからも殴る蹴るなどをしたかったのですが、教理ゆえに暴力を振るってはいけないと思い、相手の机を蹴飛ばす程度の抵抗で終わってました。

姉の不調

姉はスポーツも得意で成績もトップクラスと、私よりもかなりできる人でした。姉も私とほぼ同じような育てられ方をしています。そんな姉ですが、私が中学入学後しばらくしたあたりから、精神的に不調、拒食症になり、病院へ通院、入院するようになりました。母は子供相手に発狂したように怒ることがしばしばあり、それほど良い家族関係を築けているわけでもなかったのですが、姉の不調を機に、さらに家族関係は険悪、崩壊気味になり、自宅では、姉と母の争い声や叫び声の絶えない日々が続きました。私も面白くなくて、(家庭内で比較的対等な関係である)姉とはよく喧嘩をしていましたので、親は姉と私が会わないように事ある毎に私に「2階(自分の部屋)に行け」と言うようになりました。結果、姉が大学に入り家を離れるまでの以降約5年間、私は家族のいる場(1階リビング)ではなく自分の部屋(2階)で一人で過ごすようになりました。また、そうせざるを得ませんでした。この頃から私の性格はさらに暗く厭世的になり、これまで以上に自分の世界に引きこもるようになりました。家にいるときは、部屋の中で本を読むか漫画を読むかゲームをするか寝るかの生活になりました。

進路

そのうちに私は中学3年生になり、進路を考える時期になりました。幼少の頃よりエホバの証人の教理として教えられてきた終末思想、非社会的思想は私の考え方や人生観に大きな影響を与えていました。まもなくハルマゲドンが来て世の中のものは全て滅び、その後世の中は楽園になるという教理から、今の人生は基本的に暇つぶしであると考えており、(今の人生、世の中での)具体的、長期的な進路はまったく考えていませんでした。ただし、ハルマゲドン後には今の人生で得た知識と経験が役立つはずだと考えており、今の人生では、物を得たり、社会的地位を得るよりも、知識や経験を身につけることを重視しようと思っていました(この考え方は今でも残っています)。その関係で漠然と大学まで行きこの世の中での知識をたくさん習得しておきたいとは考えていましたが、この頃は、エホバの証人の子供の大学進学は歓迎されておらず、大学に行かせてもらえるかどうかわかりませんでした。そのような中、5年間で高校および大学レベルの勉強まで出来、うまくいけば大学への進学(編入)が可能、さらには多くのエホバの証人の子供達が進路として選択している高専に注目しました。当時、パソコンを触る事が好きでしたので、パソコンを使えるという点からも高専は魅力的でした。親は特に反対しませんでしたので、私は高専に行くことにしました。

高専生時代

閉じこもる

高専入学後、家庭状態はさらに険悪になっていきました。家では毎日のように姉と母のヒステリックな声が聞こえてきました(後日聞いた話ではこの頃に姉、母ともに自殺未遂をしていたそうです)。私と家族との交流も途絶え、私はほとんど人と話すことが出来なくなりました。結果、高専時代のほぼ全期間を通じてクラスメイトと話すことはありませんでしたし、これといった友達もできませんでした。また、エホバの証人の活動である集会、伝道には参加していたもののエホバの証人内の誰とも話せませんでした。どのコミュニティにも適応できずに、自分の世界に閉じこもっていました。

この頃は、家族はもとより人間全体が嫌いになっていました。エホバの証人の教えを信じる反面、ほぼ毎日、家族やその他の人間を包丁で滅多切りにしたり、首をへし折ったり、虐殺するシーンを思い浮かべていました。幼少のころより鍛えた、欲求を妄想の中で満たす術を身につけていなければ実際に行動していたかもしれません。妄想だけで収まらない時には、拳から血が出るまで板を殴ったり、ナイフで自身の指や手を切るなど、モノや自分あたることもありました。エホバの証人の掲げる教えとは異なる考えを持つ自分自身に嫌悪感を感じていました。ただ、そうこうしているうちに、次第に激しい感情を感じることも少なくなり、無表情になり、気づいたときには怒りをほとんど感じなくなっていました。今でも怒ったり悲しんだりというのが苦手です。

宗教活動

伝道に参加しても当然何も話すわけはなく、ただ他のエホバの証人信者の後ろについていくだけでした。集会に参加してもただ1時間あるいは2時間、妄想の中で過ごしているだけでした。長期休暇中は自室にひきこもって死んだように寝ているか、妄想しているか、漫画を読むか、ゲームをしているかのいずれかでした。世の中も人生も本当につまらないと感じ、さらに厭世感を強めるようになりました。聖書の箴言にある「すべては虚しく、風を追うようなものであった」という虚無的な聖句が一番好きで、この頃の自分の考え方の基礎になっていました。当時は死んだ魚の目のような目をして生きていたと思います。自分と他人の区別や夢と現実の区別がつかなくなったり、生きていることを感じられなくなる事もありました。

エホバの証人の教理に関しては、ある程度学校で教育を受けたり、世の中の様々な本を読んだりしていましたので、当然、おかしいと思うところもあり、全部が全部信じられるわけではありませんでしたが、それは自分の知識、調査、信仰が足りないからだと思っていましたし、思うことにしていました。暇つぶしに「知識を覚える」ことはしていたため成績は良かったのですが、「自分で考える能力」は全くありませんでした。世の中のことを知らない未熟者だったのに加え、他人との接触を拒んでいましたので、エホバの証人として生きる以外の選択肢など思いもつきませんでした。

進路

私が高専4年の頃に、姉が大学進学を理由に家を出たことで家庭内の殺伐とした雰囲気は和らぎ、同時に、私は少しずつ人と話せるようになりました。そうこうしているうちに、進路を考える時期になりました。家族と一緒に住みたくありませんでしたし、このまま親元にいてはますます駄目になると思っていました。親元から離れて自分を変えたい、大学に行ってもっと勉強したい、(親に頼らず)自分一人の環境でエホバの証人の勉強を一からやり直して信仰をさらに強めたい、と考え一人暮らしの出来る遠方の大学に進学(編入)することにしました。親は就職してほしかったようで多少の反対はありましたが、最終的には大学に通わせてくれることになりました。私の人生の中では大学進学が非常に大きなターニングポイントでしたので、この点に関しては親に感謝しています。本当は家を出るのはバプテスマを受けることが条件だったのですが、結局うやむやのまま家を出ました。

大学生時代

解放

大学生時代は、見るもの全てが新鮮でした。経済面を除くいろいろな意味で親元から解放され全ては自由で、食事、服装、日々の予定など様々なことを自分で決定できるようになりました。自分を変えようと、いろいろなイベントに参加、あるいは企画したり、人と話したり、なるべく新しいことをするように心がけました。初めての飲み会、ツーリング、カラオケ、etc。世の中の広さや娯楽を知りました。

宗教活動

大学進学当初は転居先にある会衆の集会にも参加していましたが、もともと好きでエホバの証人の活動に参加していたわけではなく、また、親元に居た頃のように当たり前のように連れて行かれることもなくなったため、自然と集会に行く頻度は減っていきました。そもそも大学生活は多忙で、集会に行く時間をとるのも大変でした。ただ、まだこの頃はエホバの証人の教理は正しいと思っていましたので、都合がつく時にはなるべく集会、伝道、大会、記念式等に参加するようにしていました。

大学院生時代

学校生活

私が所属していた学科では、ほとんどの人が大学院へ進学していました。この社会における目標はないものの、世の中の知識を求めていた私は、周りと同じく大学院に進学することにしました。大学院では、自分の頭で考えること、自分の考えを自分の言葉で適切に述べること、多様な視点から物事を見ること、その中で専門家としての視点を獲得する事、物事の本質を捉える事、等が求められるようになりました。常に自分の意見ではなく(組織の教理など)他人の意見ばかり述べ、物事の一面や表面しか見ていなかった自分にとっては、かなり厳しい環境でした。何かを覚えたり、言われたことや相手の望むことをやれば良い評価を与えられるという、単純な考えが通用する世界ではありませんでした。

人格基盤の喪失と構築

大学院生になると、一日の多くの時間を所属研究室で過ごすようになりました。研究室はかなり自由で、24時間いつでも滞在可能な上、一人あたり一つの机と数台のパソコンが割り当てられ、自由にインターネットが利用できました。その頃から、調査や気分転換と称して、あるいは現実逃避に、様々なWebサイトを見るようになり、そんな中、ふとエホバの証人についてインターネットで調べるようになりました。1914年の年代計算、教理の変遷、国連NGOへの参加、過去の預言の失敗、不完全な引用、他の人の体験談、その他様々な情報がそこにはありました。

エホバの証人の言う教理が真理でも神の言葉でもなんでもないことを理解するのにそれほど時間はかかりませんでしたが、それを受け入れるのには時間がかかりました。エホバの証人の教理が真理ではないことは、以前から薄々気づいていたものの認めてはいけないという気持ちがありました。認めればこれまでの人生や自分が築いてきたものが否定される気がしていました。しかし、最終的には認めざる、受け入れざるを得ませんでした。同時に、これまでの人生約20年に渡って組織が与えてくれた、あるいは否応無しに与えられた価値観、人生観、死生観、生きる目的、善悪の判断基準、アイデンティティ、その全てが崩れ去り、それに代わる新たなモノを自分の力で築き上げていかなければならなくなりました。すぐに虚無的、悲観的な思考に襲われ、他の人に比べ「この世」(この社会)での経験、知識が圧倒的に少ないことに激しく劣等感、不安を抱くようになり、自信、自尊心を喪失しました。

残りの大学院生活は何かと大変なものでしたが、(エホバの証人組織とは大きく特徴の異なる)大学院で、その道の専門家としての視点や考え方を学んだ事、問題発見能力や問題解決能力を鍛えられたこと、自分で考え自分の意見を言う訓練を受けた事は自分の価値観を構築していく上で非常に助けになるものでした。また幸運にも時間はたくさんありました。自分の人生を振り返った時に、エホバの証人を離れた後の環境が大学院生であったことは、タイミング的にも環境的にも非常に良いものでした。結局、他の人よりも多くの期間学生時代を過ごす事になりましたが、大学院滞在中は、自分の考えを整理したり、自分の中の価値観を再構築するための時間を十分に取る事が出来ました。この辺りの話は「私のこれまでの経験(後編)」にて述べます。

子供時代に嫌だったこと

以下では、現役時代(特に子供時代)に嫌だったことについて書いています。

ムチ

エホバの証人2世といえばムチの話が比較的よく話題に上りますが、私が小さい頃は、会衆内でムチが公然と行われていました。私を含め集会中に寝たりぐずってしまった子供は、親にトイレに連れて行かれそこでムチをされていました。子供はムチを受けることが分かっているので、必死に抵抗し喚くのですが、親に口元を押さえられ、引きずられるようにトイレに連れて行かれていました。泣き声を殺しながらトイレから出てくる子供を見て複雑な気分になったことを覚えています。私の場合、集会中に何かしてしまった場合(たいていは寝てしまった場合)は、集会中に叩かれるよりも、自宅へ帰る道中に車中で叩かれることが多かったです。集会中、親が雑誌の余白に「帰ったらムチ」と書いた途端、憂鬱な気分になったのを覚えています。

また、当時はエホバの証人の各家庭でもムチが行われていました。私の家庭では、ムチとしてゴムホース、布団たたき、皮のベルト、定規のいずれかが使われました。ムチはテレビの横に常駐しており、ゴムホース、革のベルト、布団たたき、定規の順に痛かったように記憶しています。ゴムホースで叩かれ、青いムチのあざが何日も残ったこともありました。ムチの手順は、子供がパンツを自主的に降ろし、その後、親がお尻を直接ムチで叩くというものでしたが、同じような素材、叩かれ方をしていた人が多くいますので、叩き方について何らかの指示があったのだろうと考えられます。

私の知る同じ会衆のエホバの証人の子供の中では1度に数十回叩かれている子供もいましたが、幸い、私の親は最大でも2、3回しか叩きませんでした。ただし「サタンだ」と言われたり、発狂したかのような形相で怒られたり叩かれるのは気分の良いものではありませんでした。ムチの前には、聖書や出版物の記述から何が間違っていたかを説明され、文字通り、エホバの証人の教理を叩き込ました。

他の人の話を聞いていると、ムチの実態については時代や地域、親の性格等によって結構大きな差があるようです。子供が死んだ例、今でも後遺症が残っている例、大人になっても夢に出てくるという例、女性でも20前後まで同じ方法でムチをされていた例もあれば、そういえばされていたという程度の人、あるいは、されなかった人もいるようです。私の場合、現時点でムチの記憶はそれほど残っておらず、今、ムチの記憶を思い出して嫌な気分になるということはありません。

伝道

私は幼稚園入園以前から伝道に参加していました。その頃は、区域が広く、かなり田舎の地域まで伝道に出かけていました。訪問先の家の人から野菜やおもちゃを貰えた場合は、非常に楽しかったことを覚えています。また、未割当区域と呼ばれる地区にある小さな島に、皆で船で行ったのも良い思い出です。ただし、時が進むにつれ区域は狭くなり、大きくなるにつれて何かを貰える事もなくなりました。また、ある程度の年齢になってからは、他人の家の前に白い目で見られながらも堂々と集まって噂話をしている姿、だらだらと進めて1時間に数軒程度しか訪問しない姿などを目の当たりにし、伝道活動には辟易していました。

集会、大会

幼い頃は、面白くない&よく分からない話を(ムチをされないよう)寝ずに聞く必要があり大変でした。年齢が進んでからは、毎回同じような話ばかり聞かなければならず退屈でした。20年間を通じ、集会中は退屈を紛らわすためほとんど自分の脳内世界で過ごしていました(同様に妄想して過ごしたというエホバの証人の子供たちの話はよく聞きます)。大会ではさらに多くの時間、退屈な時間を過ごす必要がありました。何もしゃべらず、何時間も椅子でじっと座り、ただ時間が過ぎるのを待つだけというのはなかなか辛いです。今でも、例えば独房に入れられたとしても妄想を娯楽にかなりの期間を過ごせる自信があります。

非協調的、非社会的行動

教理に従うが故に、特に学校で、一人だけ違う行動をする、他の人から白い目で見られること、好奇の目に晒されることが多くありました。特に幼い頃は、周りの子供たちと同じ事をしたいという思いがあって、一人だけ違う行動をすることはとても嫌でしたが、未熟でしたので、教理や親に逆らってまで周りと同じ行動をするという考えに至りませんでした。また、「この行動が真理であり正しいのだ、周りがおかしいのだ」と教えられていました。以下に思い出せる範囲で例を列挙します。

このように子供に対する禁止事項がたくさんあるため、エホバの証人という宗教は大人がやるよりも子供がやる方が大変な宗教なのではないかと個人的には思っています。また、これらの行動を正当化するために、子供は(非社会的、非現実的な)エホバの証人の教理を信じなければならず、教育上良くないように思います。

思考停止

子供の頃から科学系の本が好きでよく読んでいたので、教えられたことに関して、おかしいと感じる部分はいくつかありましたが、組織や教理に懐疑的になることは悪いことと思っており、疑問を深く追及しませんでしたし、いずれ明らかになると漠然と思っていました。いつか詳細に調べようと思っていましたが、インターネットが一般家庭に浸透していない時代に、子供が簡単に調べることは困難でした。また、調べるだけの能力や熱意もありませんでしたし、調べ方も知りませんでした。さらには、きちんと調べれば組織が正しいことがわかるのではないかと都合良く考えていました。以下、現役時代に疑問に思っていたものの深く考えてこなかったことを列挙します。

現役時代に身につけてしまったと思われる思考停止癖は大学院で受けた教育でだいぶ改善されたもののまだ残っており、今でも苦労しています。

エホバの証人として育ったことの影響

エホバの証人の家庭で育てられたことは私に様々な影響を与えました。以下、私が良かったと思っている点、悪かったと思っている点をそれぞれ列挙します。

良かった点

悪かった点